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2015年3月10日 (火)

『恍惚の人』より

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新聞のコラムで紹介されていた有吉佐和子さんの小説『恍惚の人』を最近読みました。

その中で主人公(認知症の義父を介護する主婦)の夫の治療談が、歯科での苦悩を物語っているのです。

小説の中でここまで歯科治療について書かれているのはめずらしかったので紹介させていただきますね。

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本文より

 キキキキキ―ッと耳の奥から脳に響くような不愉快な音をたてて、機械の先端は信利の奥歯を穿っていた。

大きな口を開けたまま信利は幾度も歯医者の前でのけぞり、呻き、溜息をついた。

よだれが絶間なく舌の下から湧き出るが、口の中に突っこんである別の機械が、それを間断なく吸い出している。

文明が発達しすぎて公害の時代に入っているのに、歯科医学だけは戦前と少しも変わらずにこんなことばかりしているのかと、信利は腹立たしくなっていた。
この三年間に幾度この診療所に来ただろう。

会社の中の同じ建物にある診療所だから、時間のロスは最低限に押えてはいるものの、しかし毎度来ては歯を一本一本削り、虫歯を除き、金を詰め、金を詰めても何年かすれば隙間からまた虫喰いが始まり、あの我慢のならない神経の網目を走るような痛みが起こる。

そんなことの繰返しが、これからも何年続くというのだろうか。

治療が終わったとき、信利は情けなさそうな顔をしながら訊いた。

「先生、歯というのは遺伝ですか」

「遺伝もありますが、どうしてですか」

「親爺が歯では苦労してたのを思い出したんですよ。総入歯になったのも早かったようでした」

土曜日で半日だけの、信利が最後の患者だったので、歯医者は早く白衣を脱ぎたいらしく、ぴしゃりと言った。

「総入歯は簡単ですよ。抜歯すればいいだけで治療の必要はないですからね。私は総入歯にしたくないと思うから手間ひまかけてやっているんです」
 総入歯にしたものは、すぐに後悔する。

歯にある神経はできるだけ殺さない方がいい。

神経を抜くと、歯はもろくなって欠け易く、虫喰いも早く進んで総入歯への道を特急で走ることになる―というのがこの歯医者の信条なのであった。

信利が痛みに耐えきれないから、いっそ抜いてほしいと懇願しても、彼は頑として聞き入れない。

総入歯ほど不愉快なものはないと、信利の上司たち経験者も口を揃えて言うから、仕方なく歯医者の方針通りの治療は続けているものの、いつも診療所を出るとき信利は浮かない顔になった。

「親爺も歯性が悪かったから仕方がないですかな」

「いや、誰でも損んでくる所なんですよ、歯というものは、そういうものです

歯医者は信利の愚痴を封じるように言って少し笑った。

それはまるで、誰でも信利の年齢になればそうなるのだと宣言したようで、信利には気にいらなかった。

子供の頃から歯の痛みというものは、あまり知らずに過ごしてきて、こんなに歯医者の椅子にちょくちょく座るようになったのは、ここ三、四年くらい―いや、十年ぐらい前から始まっていただろうか。

戦争中の無理な生活や、戦後抑留されてからの食生活の窮乏などが、今になって歯に現れているのだ、と信利は思おうとしていた。

それと、やはり遺伝はあるに違いない。

物心づいてから信利の知る限り彼の父親は、相手が妻であれ子であれ、胃腸の不調と歯の具合悪さを訴えなかったことはなかった。

若い頃には、そういう親に反撥を覚えるばかりで、母親も病弱の父親一人の面倒を見るのが精一杯だったから、一人息子に生まれた信利は過保護になるところを免れ、体質的に母親のほうに似たせいか丈夫一方で生きてきていた。

戦後の日本でも生き抜いてきたのは、第一に体力があったからだと言っていい。

 

それが、ここへきて急に、まず歯が続けざまに具合が悪くなってきている。

俺も行末は親爺のようになるのかと信利はその日の残業に片頬を押えながら、時どき考えこんだ。

茂造は気難しくて、歯医者だけでも何軒変えたか分からない。

そのたびに喧嘩をし、総入歯を何度となく作り直し、それが具合が悪いとすぐまた歯医者を変え、揚句の果ては遂に材料と道具類を買いこんできて自分で入歯を作り出した。

何度も何度も作ってもらっているうちに、やり方は見覚えてしまったのだろう。

「次長、歯が痛むんですか」

信利のデスクの前に一人の青年が立っていて、こう話しかけてきた。

「そうなんだよ、まったく憂鬱さ、君などは若いからこの苦しみは分らんだろうがね」
「いや僕は子供の頃にひどい目にあいましたから、それ以来ずっと食後は必ず歯を磨いているんです」

「本当かね、それは手廻しのよいことだな」

信利は社歴三、四年になる若者の、輝くように白い前歯を眩しく見上げた。

「しかし今から食後は必ず歯を磨くという習慣を持っていたら、僕のようになってから違うだろうな。お母さんがよほど厳しかったのかね」

「いや、僕らのクラスじゃ大半がそういう習慣でした。小学校の給食のあと必ず歯を磨かせられたので癖になったのかもしれません」

「それは、いいねえ」

信利は感嘆し、息子の敏にもそういう習慣があるかどうかと思いながら、

「いやあ、歯というものは君、若い頃には想像もつかないものなんだよ、頭痛や腹痛のようにはいかない。癒ってさっぱりということがないからね。しかも次々と新しく故障が起きてくる。かなわないよ。」

有吉佐和子『恍惚の人』
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いかがですか?すごいですよね。
私が小・中学校のころ通っていた歯医者さんはみんなこんな感じでしたョ 

この頃に予防歯科や歯周病治療をされていた一部の先生は、歯科医として先駆的な存在なのです。  

そんな方はたぶん1割にも満たなかったでしょうね

で、この本に登場する歯科医は、虫歯になるのは仕方がない、年をとれば誰でも悪くなるもんだって言ってしまってるんですよね。

「誰でも損んでくる所なんですよ、歯というものは、そういうものです」と。

神経を抜くと、歯はもろくなって欠け易く、虫喰いも早く進んでしまうことを説明されているのは良心的な先生だと思います!

それにしても彼の口からは、歯周病(昔の呼び名で歯槽膿漏)の話が全くでてこなかったな~。

でも最後に食後の歯磨きの習慣の話が出てきたのにはほっとしました。 

『恍惚の人』は認知症を知るのにとても良い小説だと思います。
誰もが直面する「老い」という課題を取り上げていて、自分や家族の未来を考えさせられる一冊でした。読み物として、とてもおもしろかったですよ。是非ご一読を。

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