『恍惚の人』より
新聞のコラムで紹介されていた有吉佐和子さんの小説『恍惚の人』を最近読みました。
大きな口を開けたまま信利は幾度も歯医者の前でのけぞり、呻き、溜息をついた。
よだれが絶間なく舌の下から湧き出るが、口の中に突っこんである別の機械が、それを間断なく吸い出している。
会社の中の同じ建物にある診療所だから、時間のロスは最低限に押えてはいるものの、しかし毎度来ては歯を一本一本削り、虫歯を除き、金を詰め、金を詰めても何年かすれば隙間からまた虫喰いが始まり、あの我慢のならない神経の網目を走るような痛みが起こる。
そんなことの繰返しが、これからも何年続くというのだろうか。
「先生、歯というのは遺伝ですか」
「遺伝もありますが、どうしてですか」
「親爺が歯では苦労してたのを思い出したんですよ。総入歯になったのも早かったようでした」
歯にある神経はできるだけ殺さない方がいい。
信利が痛みに耐えきれないから、いっそ抜いてほしいと懇願しても、彼は頑として聞き入れない。
「親爺も歯性が悪かったから仕方がないですかな」
「いや、誰でも損んでくる所なんですよ、歯というものは、そういうものです」
それはまるで、誰でも信利の年齢になればそうなるのだと宣言したようで、信利には気にいらなかった。
戦争中の無理な生活や、戦後抑留されてからの食生活の窮乏などが、今になって歯に現れているのだ、と信利は思おうとしていた。
それと、やはり遺伝はあるに違いない。
若い頃には、そういう親に反撥を覚えるばかりで、母親も病弱の父親一人の面倒を見るのが精一杯だったから、一人息子に生まれた信利は過保護になるところを免れ、体質的に母親のほうに似たせいか丈夫一方で生きてきていた。
戦後の日本でも生き抜いてきたのは、第一に体力があったからだと言っていい。
俺も行末は親爺のようになるのかと信利はその日の残業に片頬を押えながら、時どき考えこんだ。
茂造は気難しくて、歯医者だけでも何軒変えたか分からない。
そのたびに喧嘩をし、総入歯を何度となく作り直し、それが具合が悪いとすぐまた歯医者を変え、揚句の果ては遂に材料と道具類を買いこんできて自分で入歯を作り出した。
何度も何度も作ってもらっているうちに、やり方は見覚えてしまったのだろう。
「次長、歯が痛むんですか」
信利のデスクの前に一人の青年が立っていて、こう話しかけてきた。
「本当かね、それは手廻しのよいことだな」
信利は社歴三、四年になる若者の、輝くように白い前歯を眩しく見上げた。
「しかし今から食後は必ず歯を磨くという習慣を持っていたら、僕のようになってから違うだろうな。お母さんがよほど厳しかったのかね」
「いや、僕らのクラスじゃ大半がそういう習慣でした。小学校の給食のあと必ず歯を磨かせられたので癖になったのかもしれません」
「それは、いいねえ」
信利は感嘆し、息子の敏にもそういう習慣があるかどうかと思いながら、
「いやあ、歯というものは君、若い頃には想像もつかないものなんだよ、頭痛や腹痛のようにはいかない。癒ってさっぱりということがないからね。しかも次々と新しく故障が起きてくる。かなわないよ。」

この頃に予防歯科や歯周病治療をされていた一部の先生は、歯科医として先駆的な存在なのです。

で、この本に登場する歯科医は、虫歯になるのは仕方がない、年をとれば誰でも悪くなるもんだって言ってしまってるんですよね。
「誰でも損んでくる所なんですよ、歯というものは、そういうものです」と。
神経を抜くと、歯はもろくなって欠け易く、虫喰いも早く進んでしまうことを説明されているのは良心的な先生だと思います!
でも最後に食後の歯磨きの習慣の話が出てきたのにはほっとしました。
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